電話口でウクレレを弾く男  斉藤和義が『ポストにマヨネーズ』という歌を歌っている。連日深夜にかかってくる 無言電話に対する怒りを表現した歌だ。「モーニングコールを8時に頼む」とか、「思い 切りエッチでやらしい声 たまにゃ聞かせろよ」だとか、一見電話の相手を茶化している ような歌詞。しかし言葉の節々が刺々しい。  この歌が出たのはまだ携帯電話が十分に普及する前、1995年のことだ。相手の番号が 画面に表示される今とは違って、やはり匿名性が高かったからだろうか、無言電話やいた ずら電話は今よりも身近にあったように思える。  そんな時代だったから、語学の授業で「電話での会話を作りなさい」という課題のテーマ にいたずら電話を選んでしまうバカな学生がいたとしても不思議はない。僕の行っていた 大学にはスウェーデン語の授業があった。スウェーデン人の若い女の先生による会話の授業 で、僕はクラスメイトのヒロと一緒に次のような会話文を作ったのだった: - Hej! Vem är det? - Du är vacker. - Vad? Vem är du? - Du är vacker. - VEM ÄR DU!? - Du är vacker. - もしもし、どなたですか? - あんた綺麗だよ。 - はい?どちらさま? - あんた綺麗だよ。 - いったい誰なの!? - あんた綺麗だよ。  以上。  二人でペアになってこれを朗読した時の先生のあの引きつった顔は今になっても忘れら れない。怒られこそはしなかったが、全くもって始末に負えない生徒である。  あの頃の電話は通信手段である一方で、時として僕らの平凡な生活に突然未知の世界に 繋がる穴を開けてしまうような、ちょっと危険な匂いのする道具だった。ただ、そこに空け られた穴の向こうにあるのは、これまでに書いてきたような不気味で黒くよどんだものば かりではなかったことも事実である。  14歳の時のことだ。ある休日の朝、二階で眠っていた僕は母親の声で目が覚めた。どうも 1階の居間にいるらしい母は、それは間違っている、わたしじゃない、といったような台詞 をただ一方的に、そして一生懸命繰り返している。  そして次の台詞で僕はむくりと布団から起き上がった。 「あの人には届いていないのよ!」  何事かと思って下に降りると、母はコードレス電話の子機を充電台に戻しているところ だった。僕がどうしたのか聞くと、振り返りもせずに「ただの間違い電話よ」とだけ言った のだった。僕はこの出来事をほんの数日で忘れてしまった。しかしあれから15年ほど 経ったある冬の夜、ひょんなことからこの出来事が思い出されたのである。  僕は居間でウクレレの練習をしていた。まだ始めたばかりの頃で、ザ・スパイダーズの 『なんとなく なんとなく』のコード進行をひたすら繰り返していた。母はテーブルを 挟んだ反対側で組み紐を組んでいた。 「そういえば昔、間違い電話でウクレレを弾いている人がいたわよ。」  突然意味の分からないことを言い出す母である。僕は手を止めずに「え、なにそれ。 何で?」と聞き返す。  話を聞いてみると、こういうことだった。  ある日曜の朝、電話のベルが鳴ったので母は受話器を取った。もしもし、と話しかけた が相手は何も言わない。代わりに受話器をコトンと床かどこかに置く音が聞こえた。なん だ、いたずらかと思って母が電話を切ろうとした瞬間、電話の相手は受話器に向かって弾 き語りを始めたのである。なぜかウクレレで。  母は言う。 「あなたが弾いてるのを聴いて、聞き覚えがある音だなと思ったのよ。」  どうせもらい電話でタダだし ー そう思った母は、電話を切らずに暫く相手の演奏を 聴いてみることにした。三小節と一拍の前奏の後、電話の相手はこう始めた。  君と会った〜この日か〜ら〜  まさに今僕の練習している、『なんとなくなんとなく』である。歌声から電話の相手は 男性だと分かった。そして、これがまた楽しそうに歌うのだという。母はいつもどおり半 目で、抑揚のない口調でそう説明した。 「あんなに楽しそうに幸せって歌われたら、相手の人は嬉しいだろうなって思ったわ。」 「えっえっ、ていうかさていうかさ、この曲って台詞のところあるよね。その人台詞も ちゃんと喋ってたの?」 「うん、言ってた・・・」  困っちゃったなあ。君を好きになっちゃったんだ。ただ、なんとなく・・・って言った んだその人!  母曰く、若干の照れはあったものの彼は台詞を言い切った。他人に対する告白を思い掛 けなく聞いてしまった母である。それは大変気まずい状況であったが、男は間違い電話に 気付いていない。このまま電話を切ってしまうと彼は告白に失敗したと思い込み、落ち込 んでしまうかも知れない。そう思った母はもはや受話器を置けなくなっていた。  一曲歌い終えると、男は静かになった。特にこちらに語りかけるでもなく、沈黙は数秒 間続いた。どうも、相手が電話を切らずに聴いていることを確認しているらしい。そして 暫くすると次の曲が始まった。  二曲目は母の知らない曲だった。もしかするとオリジナルソングなのかも知れない。 男は歌の中で相手の名を呼び、語りかけ、愛を伝えた。母は受話器を置くわけにもゆかず、 ただ聴いていたが、何とかしなくてはいけないと思った。歌を贈る相手が間違っているこ とを伝えなくてはいけないと。  受話器から離れている相手に聞こえるよう、母は思いきって声を張った。 「間違いなの!ねえ、聞こえてる?私はあなたの好きな相手じゃありません!」  だが相手はやめない。もっとも、受話器の前で楽器をかき鳴らして大声で歌っているので 聞こえていないのだろう。しかし、あの台詞を言った瞬間である。 「あの人には届いていないのよ!」  それはちょうど演奏が途切れたタイミングに重なった。そして相手は何も言わず電話を 切ったのであった。 「おふくろ、ちょっとお人よしなんじゃないの。」  相変わらず僕はコードを弾きながら母の話にコメントした。 「だって、かわいそうじゃない。」 「ふーん・・・」  それから暫くの間、僕は引き続きウクレレを弾き、母は組み紐を組んだ。区切りがつい たのか、母は手を止めて道具を片付けた。それから戸棚にしまってあった白波を取り出し、 台所へグラスと氷を取りに行った。 「あなたも飲む?」 「いや、僕はいい。明日会社あるから。」 「そう。」  母は氷の入ったグラスを一つだけ持ってきて、それに白波を注いだ。僕がウクレレで 『見上げてごらん夜の星を』を練習しているのを聞きながらその一杯を飲み干すと、 ゆっくりと立ち上がり寝室に入っていった。